写真は”コロナが分かつ孫と祖母“です。
101日ぶりに母に面会できました。
コロナのせいで、私は外出自粛でしたし、老人ホームは面会制限でしたし、での101日ぶりです。
この写真は、どんな風に見えますか?
私はこれを、三面記事に載りそうな美談として撮影してみました。
ピューリッツァー賞を狙って、インスタ用の画角で撮りました。
(※娘の肖像権があるので画質を落として掲載しています)
ダブルケアを経験する前の私は、こうゆう写真に胸打たれていました。
でも今は違います。
病気モノのドラマや映画には感動しなくなったし、登場人物が全員健康なドラマや映画にも心が動かなくなりました。
ガラス越しの我が娘と我が母。
写真の二人は、手を触れ合わせようとしているように見えます。
しかし、種を明かします。
娘は私に飴を要求していて、
母はガラスの汚れが虫に見えています。(病気または薬の副作用による幻視の状態)
それが現実です。
101日ぶりの母。
認知症が進行しているだろう。車椅子に乗せられ、もう自分の足では歩けなくなっているだろう。下手したら寝たきりかもしれない。私を忘れているかもしれない。
面会には、嬉しさだけでなく大きな不安もセットでくっ付いてきます。
ビックマックセットみたいに。
どんな母を目の前にしても平常心でいること、それが私の指針です。
頭の中で平常心を何度も練習します。
そしてお決まりの儀式。
mission01.お天気の話をする
mission02.爪を切ってやる
この二つができれば、私の役割はヨシと思うようにしています。
でも、どんなにリハーサルしても、現実の母に会うと私は大根役者。
101日ぶりの面会を詫びるし、
コロナの話をするし、
家族の無事や私の元気を泣きべそ早口に喋ります。
娘だから。
病が母を変えても、私は彼女の娘なんです。
そんな風に、いつも私の面会はあからさまな動揺からスタートします。
そいで、私が勝手に落ち着いたら
例の儀式に取り掛かります。
天気と爪を済ませると、私の動揺は収まります。
素人目に見て、
病は母の脳と体を侵していますが、彼女の精神にまでは入り込めていないようです。
母は悪態はつくものの、嘆いて悔やんで落ち込んだり、帰郷を叫んで暴れたりはしません。
病人で老人な母が、毅然としている様がチグハグで、私は彼女が愛しい。
彼女は母でいる時間より、職業人としての方が長かったので、今もなお現役で働いている、という夢の中を生きています。
この写真の日は、当時の母の同僚の方と電話を繋ぎました。
これが功を奏しました。
天気と爪しかやんない娘より、ずっと良い!
iPhoneを耳に当てた母の目は、みるみる黒光り。
ほんの一瞬でも母の回線が作動して良かったです。
母は娘の幸せを何よりも望んでいる、と勝手にそうゆうことにして、私は幸せに毎日を過ごしています。
もう母の難病を治そうとか、母が可哀想とかは、脇に避けました。
ただ、この国で病んで老いることが困難であることに怒りを覚えます。
この怒りは、きっとずっと私から消えません。
いつかのTVで、デヴィ夫人が、なぜそんなに美しいままでいられるのかと問われ、
根底に怒りがあるからよ、とサラリ仰っていました。
怒りは、案外“悪”ではないのかもしれません。
この写真は、どんな風に見えますか?
2020年6月8日ふみっ記